こんなもんです

中卒女が今さらなことに驚いたり学んだりする日々をだらだらと記録しています。唐突に気持ち悪い話や思い出話をします。

昼間に地元のファミレスで

私はよく「友達が欲しい」「友達ができない」って言う。友達が何なのか彼女から教えてもらったから、欲しがってもできないことを知っているのに。頭にかすめる彼女とのあの頃や、逃げてしまった自分の弱さを塗りつぶす呪文のように。

 


中学生になって数カ月たった頃、家庭の事情というやつが複雑になった私は、一丁前にグレて、髪を染めたり、授業をサボったりするようになった。

 

同じとき、私と同じような身なりをして、私より自由奔放な同級生がいた。それが彼女で、話してみたら気があって、気付けばよく一緒にいるようになった。

 

私は父親が鬼軍曹のように怖かったから、学校には比較的毎日通っていたけど、彼女は好きなときにしか登校してこない。その「好きなとき」とは、午前の授業が終わった昼休みの時間。私は彼女が来るまでの間、ひたすら机に突っ伏して時間を潰す。昼のチャイムが鳴り、みんなが教室でお弁当箱を広げるとき、私は技術室の裏へ急ぐ。

 

そこで彼女と「おはよう」と落ち合う。化粧道具と携帯しか入ってないすっからかんな学生カバンをぶら下げてくる彼女の前に、私は持ってきたお弁当箱を広げる。ミニトマトも唐揚げもウインナーも全て二つずつ。鬼軍曹が私と彼女のために作ってくれた2人分のお弁当だ。

 

彼女は金髪で、背が低くて、よくわかんない年上の男の人と付き合ってそうな、他とは違う雰囲気を持っている、切れ長の目が印象的なクールな女の子…と思われがちな、ちょっぴり抜けてて、とんちんかんなことを言って、切れ長の目をくしゃっと下げてはにかむシャイな女の子。金髪だしチビだしよくわかんない年上の男の人と付き合ってたけど。

 

一方私はたいへん中二病をこじらせていて、ケガしてないのに指に包帯を巻いたり、廊下で落語のようなものを披露したりして満足していたようだ。

 

そんな彼女と私は、手を繋いでトイレに行ったり、ズッ友なんて誓い合ったりはしなかったけど、誰も来ない技術室の裏で、鬼軍曹がパンパンに詰めたお米と格闘して、午後は「猫のようにじゃれ合ってる2人を見るのが大好き」って言ってくれるおばちゃんの先生がいる保健室で、ベッドに転がりながら放課後の予定を決める毎日を繰り返した。低血圧で方向音痴な感じが心地よくて面白かった。

 

そんな調子で愛されながら3年間を締めくくりたかったけど、私はそうもいかなくて。中3の冬にくだらないいざこざがきっかけで、私は今まで仲が良いと思っていた女子のグループから嫌われてしまった。まあきっと、前からみんな気持ち悪いとかうざいって思ってたんだろう。今となってはわかるけど、その頃の私にはとてもショックで。

 

それでも彼女とお弁当をつつく時間は訪れる。変わらない場所で変わらない彼女と変わらない時間を過ごしたから救われた。何より、私のおかしいところを面白がってくれていたから、それで良かった。

 

卒業式を間近に控えた頃には、国籍のことでバカにされていたフィリピンのハーフの子、女子グループからはぶられた真面目な子、保健室の先生、彼女、私の5人でよく一緒にいた。ガラクタ同士、これがしっくりきて、最強な気がして。自分でもまさかだったけど、桜が舞う中5人で写真を撮ったときはぼろぼろと泣いてしまった。

 

面白いから一緒にいる。2人にとってはこれが正義で、それだけのことだった。“らしい”に縛られない自分たちが誇らしかった。そんな3年間を過ごせたことがうれしかった。だから終わってしまうのがさみしかった。卒業ってそういうことなんだと知った。

 

それから私は全日制の高校へ、彼女は定時制の高校へ。だけどやっぱり学校生活に馴染めなくて、半年も経たないうちに二人して中退した。「早く社会に出たい」なんて理由だけ一丁前に辞めたけど、せいぜいお金を稼ぐようになって遊び方が変わったくらいで、中学生のときとなんら変わらない毎日に巻き戻し。その頃フィリピンのハーフの子は子供を生んで立派なお母さんになっていたし、もう一人は高校に通い続けていて、次第に距離が離れていったけど、特に焦りを感じることはなかった。

 

18歳になって、彼女の母が営むスナックで働くことになった。とくに仕事をしていなかったし、彼女の母が営むスナックだから、なんとなく、ノリで。

 

これがすこぶるつらかった。とんちんかんで人見知りな私はお酒に頼ることしかできなくて、体も心もなかなか苦しい日々を過ごした。彼女もたまに手伝いに来るし、周りの人やお客さんは優しい人ばかりだったけど、辞めるまでの6年間に、私はいじけて孤立してしまった。彼女との関係を断ち切るほどに。

 

彼女は何もしていない。ただ私が、憂鬱ながらも出勤して、喋りたくなくても喋って、飲みたくないお酒を飲んで、朝に帰る日々の繰り返しに疲れてしまっただけ。

 

苦手と向き合う毎日の中で、取り繕うことを選んだ私は、表面的に人と会話することしかできなくなって、仕事以外で人とどう喋ったらいいかわからなくなって、また取り繕って、しまいには彼女ともかみ合わなくなって。

 

そのうちに、そのままで愛される彼女とそのままでいられない自分を比べるようになって、深みにはまってしまった。勇気がないからそんなつまらない感情に振り回されて、彼女のお母さんの店だから辞められないと言い訳をしながら若い時間を果たして。それがいいとは思わなかったけど、それしかないと思ってた。痛すぎる6年だった。

 

一方的に去った私に彼女は何度も「何かしたならごめん」と連絡をくれた。辞めてもなお、かたいしこりを溶かしきれなかった私はそんな彼女の言葉を全て無視して、彼女が通るであろう道はなるべく通らないようにしたり、関わる全てを避けたりした。同じ地元にいるのに、逃げているようでみっともなかったけど、そうでもしないと苦しかった。

 

その後はしばらく職を転々とした。6年間も苦手な接客業をやっていたからどこも余裕だろうと思っていたけど、どこも続かない。ようやく自分のぬるさに気付いても、くすぶるばかりで、言い訳をしながら同じことを何年も何回も繰り返した。

 

こじらせたままやけになって飛び込んだ世界で、助けられて、刺激されて、気付かされて、今はしっくり毎日を過ごせている。意識が高くなったわけでも、何かに成功したわけでも何でもないけど、徐々に朗らかな心を取り戻して、ようやく自分のちっぽけなプライドや弱さに目を向けられるようになった。

 

そして私は今日、約4年ぶりに彼女と会ってきた。避けていたわりになぜかブロックはしなかった彼女からのお尋ねLINEを何年かぶりに開き、何個かメッセージを交わした流れで。

 

昼間に地元のファミレスで、彼女と私は、溶けかけた氷をストローで回してみたり、おしぼりを何度も広げたりたたんだりしながら、4年間を埋めるように、ずっとお互いの話を聞いた。彼女はちょっぴり抜けてて、とんちんかんなことを言って、切れ長の目をくしゃっと下げてはにかむシャイな女の子のままだった。実質的に低血圧で方向音痴になっていたけど、何も変わってなかった。

 

すぐに相変わらずの肩透かしな感じが心地よくなって、あの頃放課後の予定を決めていたように、このあと猫カフェ行こうってなって、猫と遊んで、少し話して、またねって言って帰ってきた。それだけだけど、それがよかった。大好きな時間だった。

 

私はしばらく、変わらないものを憎んで、ずっと続きそうで続かなかった若い日々をあざ笑って、自分を肯定してきた。でも、変わらないものがあったから、今日、思い出が一つ柔らかくなって、宙に浮かんだ。

 

今までごめんね、今日はありがとう。これからもよろしくね。

 

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