こんなもんです

中卒女が今さらなことに驚いたり学んだりする日々をだらだらと記録しています。唐突に気持ち悪い話や思い出話をします。

あて

昼ごはんを食べた後、Googleで「暇」と検索するくらいやることがなかったから、日が暮れる1時間前に家を出た。見覚えのある場所に出るまで、あてもなく歩いてみようと思って。

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日が暮れる1時間前に家を出るということは、1時間で行って帰ってこられる範囲を歩くわけで、あてもなくと言ったって今どこを歩いているか何となくはわかるわけで、十何年と通っていない道は十何年前に何度も通っていた道なわけで。

父の車を洗った青い洗車場が、似たような外観の家がいくつも並ぶ一画になっていて驚く。保育園生の頃「おねえさんになったらここでお勉強をするんだ」と思っていた学区外の小学校の裏に変わらず川が流れていて安心する。

ここをずっと歩いていくと古い平屋の家があるはずで、その家にはばあちゃんが暮らしているはずで。気付いたら、十何年と会っていない母方の祖母の家の近くを歩いていた。日が暮れる前にここまで歩いてこられるとは思わなかった。

記憶をたどって歩いていただけだから、万が一ばあちゃんに出会したときの一言目を考えていない。ばあちゃんは子どもの頃の私しか知らないから、30歳になった私を見てもきっと気付かない。まだあの家で暮らしているかもわからない。元気でいるかも、わからない。

引き返すより早いし、前を通るだけなら大丈夫、と思い切って先に進む。何もかもに見覚えがあって困る。野良犬について行って迷子になったときに寄った雑木林に日が暮れていって、お母さんと笹舟を作って流した小川がきらきらと光る。心臓がズキズキする。

記憶のままのシルエットの家がだんだんと近づいて、歩幅とペースがぎこちなくなる。ボロの犬小屋はもうなくなっているけど、取って付けたようなトタンの物置はある。ばあちゃん家の匂いと砂壁の手触りが今もわかるような気がする。

前を通るだけのはずが、あの頃はなかったものが目について足が止まってしまった。手作り感のある小屋と「新鮮野菜」と書かれた幟旗が家の前にある。ばあちゃんが畑をやっていたことと、お母さんに「畑のキャベツの中から拾った子があなたよ」と聞かされたことを思い出した。

玄関先をのぞいてみる。よく知っている苗字の表札がある。そっとまわりこんで居間の方をのぞいてみる。明かりがついている。ばあちゃんは今も元気に畑をやっていて、あの小屋で野菜を売りはじめて、小屋には椅子が置いてあったからそこに座って近所の人とおしゃべりをしていて。

全部、全部、想像だけど、きっとそうだからうれしくて、逃げるように走って帰った。きっとまた近いうちに前を通るから、その時にもしばあちゃんがいたらたまたま前を通りかかったふりをして野菜を買うから、一言目を考えておくから、もう日が暮れるから。

お母さんと弟と私と、自転車でよくばあちゃん家に行っていて、途中におもちゃ屋さんがあって、いつも内心「今日は寄んないのかな」って期待していて、暑い日は着いたときの麦茶がおいしくて、お母さんの妹が好きな長渕剛の歌を聴かされて、帰る時間になると押し入れに籠城して困らせて。帰り道に記憶が逆再生していって、いっぱい涙が出たけど、平気だった。

日が暮れる1時間前に家を出てよかった。あてもなく歩いてよかった。いろいろな事情をいろいろと難しく考えて、歩いて行ける距離なのに通らないようにしていたけど、もう子どもじゃないから、次はあてがあるから、きっと平気。

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