こんなもんです

中卒女が今さらなことに驚いたり学んだりする日々をだらだらと記録しています。唐突に気持ち悪い話や思い出話をします。

わずらわしい

娘として、自分の親への結婚祝いを考えることほど、わずらわしいことはない。

だってほら、知っているジイと知らないバアの、互いに二度目の結婚祝い。30歳の娘から、心を込めたプレゼント。

例えばそれは、二つを合わせるとミッキーとミニーがキスをするマグカップ。いやあ、ないだろう。小っ恥ずかしいだろう。あまりに積極的で、清潔すぎやしないかい。

まあ、父とはいろいろあったから。長いあいだ、父の不安定な心とともに私たちは転がり続け、壊れ、離れていったから。そう、思い返せば……なんて、話せば長いからやめとくが、なんて、含みを持たせるほどの話はないのだが。

まあしかし、互いに年をとり、体力がなくなって、親子の関係はおざなりだか、なおざりだかになっていった。今は年々とそれらしくなっていく親子の様を、内から見守っていくことが、それだけが、大切だったりする。

そして、足りなかったところを繕うことはできないが、親子の今までとこれからが惨めにならないように、穏便に続けていくだけで、それだけで、精一杯だったりする。なんてな。

だけれども、そこでまあ、娘として厚かましくも、かっこつけたいような、結婚を機に、なんて、あほくさいようなことを、ずっと考えているわけで。

電話口の明るい声を思い出すと、この喜ばしい、むずがゆい、いい歳こいて、何とも言えないそそっかしい気持ちが、わずらわしいわけで。

とまあ、結婚報告を受けてから、今日までの数日間、いや数週間、結婚祝いを考えているときの頭のなかは、ずっとこの調子。この読点のリズムと、言葉の拙さは、娘としての逡巡そのもので、めんどくさいでしょう。

結婚報告を受けた日、「いい週末だった」なんてことを日記に書いた。これが本当、素直な気持ち。だから、だけど、心からこだわりたい、娘として。

このわずらわしい感じが、実はとてもうれしい。小っ恥ずかしくて、あほくさくて、無難でいいのに。こういうところが似たんだろうね、親子。いや、だとしたら大変だ、今回限りでやめておこう!

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だからまあ、娘として、自分の親への結婚祝いを考えることほど、わずらわしいことはない。きっとない。