こんなもんです

中卒女が今さらなことに驚いたり学んだりする日々をだらだらと記録しています。唐突に気持ち悪い話や思い出話をします。

遠慮

仕事、全然しなくても良い。遠慮したい。これは経済的に余裕があるからとかそういうことではなくて、いや本当に、全然大丈夫、という遠慮。

遠慮というと気を遣わせてしまうかもしれないけど、遠慮したい。なぜなら私は今、すごく忙しい。やりたいことがたくさんある。

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まず、猫とずっと一緒にいたい。仕事をしていても猫と一緒にいられるけど、そういうことじゃない。好きなときに好きなだけ、「猫といる」を実感したい。

それは、実はすごく忙しい。実感というのは見たり触れたりすることで、片手間にはできない。猫とずっと一緒にいることに集中しなければならない。

ちなみに、「ずっと一緒にいたい」というのは、「一体化したい」という意味である。見たり触れたりすることは過程であって、最終的には取り込まれたいと考えている。

取り込まれる理想の形としては、右の肘から下がシャウエンに、左の肘から下がハクシャウズに取り込まれるという形で、私はそのふたりに引きずられてどこまでも行きたい。

その形であれば、ふたりに危険が迫ったときに助けられる。歩き疲れたときは私が代わりに歩く。ふたりが別々の道を歩むなら、そのとき体は引き裂かれるだろう。そうなると、仕事どころではないから遠慮したい。

もしそれがかなわないなら、趣味を理由に遠慮したい。言っておくが、趣味を行うために遠慮するのではない。生まれて初めて「趣味がある」という自覚を持ち、日々と接しているから遠慮したい。

自覚を持つこと、これは容易なことではない。「私は趣味がある」という自覚を持ち、意識的に趣味を行うことがいかに誠実で大変か、よく考えてみてほしい。

惰性ではないのだ。動機があり、意欲的で、かつ実直に趣味と向き合っている。これが「趣味がある」という自覚。どれほど難しいことか、今にして趣味を見つけたからこそわかるのだ。

趣味は主に庭いじりと手芸で、それぞれを実行する季節は春秋、夏冬と二つに分かれる。心地よい陽気が続くあいだは庭いじりに没頭し、それが過ぎれば手芸へ移行する。

これは流動的に見えて、実に自覚的。旬の食材を意識的に取りいれることと一緒。食育ならぬ、趣味育。それらを通じ学んだことを、役立てたいと考えている。

例えば庭いじり。庭に池を掘り、ガサガサで採集した生体を投入して、生態系を再現したいと考えている。これは壮大なプロジェクトで、自宅の庭を猫たちの「自然教室」にしたいという構想に基づいた行動だ。

夏冬の手芸には、「材料は家にあるもの、または安価で購入できるものに限る」というルールを課している。これは社会の仕組みと同じで、仕事をせずとも生活の秩序を保つことができる。

つまり、仕事をしなくても全く問題ない。だから遠慮したい。猫を養うにも趣味をするにもお金が掛かるから今はするけど、気持ちとしてはもう全然大丈夫。いろいろな幸運が重なって、仕事をしなくても良い生活になったらはっきりと断る。それまでは遠慮したい。

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