こんなもんです

中卒女が今さらなことに驚いたり学んだりする日々をだらだらと記録しています。唐突に気持ち悪い話や思い出話をします。

おいしいパンとジャム

おいしいパンとジャムを求めて河口湖まで行った。おいしいパンとジャムが河口湖にあるかどうかはわからずに。

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富士山の天然水を使った観光客向けのおいしいパンとジャムぐらいあるだろうと安易に考えて行った。案の定、おいしいパンとジャムはそう簡単には見つからなかった。

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おいしいパンとジャムがありそうな店を探して河口湖を一周したり、ブルーベリーソフトクリームを食べたりした。目的を忘れかけたけれど、それもまたよかった。

おいしいパンとジャムは帰り際に見つけた。河口湖を十分に満喫したあとだったから、見つけたときのリアクションは「あーあった、よかったよかった」くらいのものだった。

おいしいパンとジャムは明日の昼に食べることにして、今夜は適当なものを食べながら、シャウエンにお土産の鰹スティックをあげた。おいしいパンとジャムを求めて、またどこかへ行こう。

何屋さん

昼過ぎに天下一品でこってりを食べて、スーパーに寄った帰り道、花屋を通り過ぎ、骨董品店の角を曲がったら、ふと「将来、何屋さんになろうかなあ」と思った。

開業を本気で考えているわけではない。いいアイデアがあれば、私に向いている業種が思い付けば、たまたま助けたおばあさんに「あんたにこの店をやるよ」と言われれば、やるかもしれない。

ふと思ったままを声に出したら、運転席の同居人が「何それ」と笑ったあと、「コロッケ屋さん」と答えた。そういえばさっき、コロッケ屋さんの前を通った。

コロッケ屋さん──。「かえちゃんの手作りコロッケ!」の看板が傾いて、ヒュ〜……と風が吹く光景が目に浮かんだ。カウンターの中にいるバンダナを巻いた私は、毎晩売れ残ったコロッケを食べている。

「コロッケ屋さんは却下、次!」「ガビョ〜ン」。同居人は信号待ちの間に考えるふりをして、「じゃあお花屋さん」「あ、あとさっきの暗い店」と連投した。全く、もう少し本気で考えてほしい。

「花屋はお客さんに花の種類とか育て方を聞かれても『多分そんな感じです』って答えることしか出来ないし、骨董品はもっとわかんない。常連の物知りじいさんの話が長くて多分やんなっちゃうよ」

できない理由を並べると、同居人が食い気味に「そんなの勉強したらいいじゃん」と言った。全くもってその通りだ。しかし、私は本気で考えているわけではない。もう少し気楽に考えてほしい。

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家に着く前には、将来「餃子屋さん」になることが決まった。理由はスーパーでチルドの餃子を買ったから。しっくりはこないけれど、考えるのが面倒になったから何でもいい。f:id:am161024:20210523033822j:image

夜、チルドの餃子を食べた同居人の「これ薄皮でおいしいなあ」「手作り感がある」という感想を聞いて、「かえちゃんの手作り薄皮餃子!」が頭に浮かんだ。ヒュ〜……と風が吹いていた。

食べる気持ち

ジャムトーストが食べられるようになった。今まで「腹を満たすものはしょっぱい」「満たさないものは甘い」と思い込んでいたから、1枚食べればまあまあ満たされるジャムトーストの存在に戸惑っていたけれど、「ジャムトーストは例外」と気付いたら気持ちが楽になって食べられるようになった。

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気持ちでものを食べがちなのかもしれない。「味がないから」という理由で苦手だったうどん、そば、豆腐、じゃがいもは、「米」と同じポジションに置いたら気持ちが楽になって食べられるようになった。多分、ラーメンやとんかつと同じポジションに置いていたから、味がないと感じていたのだと思う。

子どものころはより気持ちで食べていた。駄菓子屋以外で「食べたいものを自分で買う」概念がなかったから、食べものはお母さんが用意したものと給食が全てで、めったに食べられないケーキや、数や量が限られている3個パックのデザートが「好きな食べもの」だった。

お母さんがダイエットのためにタッパーで作っていた無糖のヨーグルトや、お父さんがお酒を飲みながら食べている苦いもの、辛いもの、酸っぱいものは、おいしくはないけれど、おいしいと感じることが大人みたいだから、おいしい気がした。「ちょっと食べてみる?」の一口が待ち遠しかった。

今は何でもない日にコンビニでケーキを買う。3個パックは多い気がする。めったに食べられないもの、数や量が限られているものが好きな食べものではなくなった。初めて食べたフカヒレやデパ地下で緊張しながら買ったグラム売りのお肉はおいしかったけれど、あのときの一口の方がずっと覚えている。

気持ちで食べがちだから、昨日はまずかったものが今日はおいしかったり、ずっと昔に食べた大したことないものが一番のままだったりする。そして、夜中にこんなことをむきになって書いている理由は、お腹が空いているからだったりする。ジャムトースト、食べようかな。

2時59分

飼い猫が死んだあとの心境をつづった文章を読んだら参ってしまった。本当に、参ってしまった。シャウエンもいつか、そう遠くない未来に……ああ、ダメだ。

今でこんなにダメなのに、どうなってしまうのだろう。それは突然かもしれないし、覚悟したときかもしれない。毛づくろいの湿った音や、お腹の土っぽい匂いを……ああ、ダメだ。

ダメだダメだ。ああ、ダメだ。……ダメだぁ。いいよ、今は。ただただ愛しているから、いいよ。これからもずっと変わらないから、今はいいよ。ああ、お土産のミニダルマを落とした。いいよ。

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影響力

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夕食後、テレビの大食い特集を見ていたら、ここ数日、生理前の過食でいくら食べてもお腹いっぱいにならないことと、食器棚の下の引き出しに袋麺が二つ残っていることを思い出した。

お腹の限界を探ってみたい。シャウエンが「また?」という顔をして台所まで付いてきた。同居人は夜の仕事でさっき家を出たし、シャウエンの発情期は落ち着いたし、明日は休みだから、何か特別なことをしたかった。

大食い動画は好きでよく見ている。そういえば、二人分を作るために袋麺を二つ茹でることはよくあるけれど、一人分のために二つ茹でたことはなかった。お湯を捨ててみたり、粉末を冷蔵庫のポケットにしまったりしていたら、麺がのびてしまった。

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テレビではまだ大食い特集が続いていた。再現VTRにあわせて麺を思いっきりすする。その間、シャウエンはおやつをもらうつもりでいるのか、テーブルの横で何度も座り直していた。

半分もいかないところで苦しくなってきた。麺がさっきより増えている気がする。シャウエンは痺れを切らして寝室の方へ歩いていった。大食い特集を見て大食いにチャレンジするなんて、影響されやすいにも程がある。

影響されやすいから、2日前に「下品におどけていたら千鳥の大悟に『自分を大事にせえ』と本気で叱られて、なんやかんやで付き合うことになる」という夢を見て、「坊主も嫌いじゃないかも……」と思うようになった。

おじいちゃんも影響されやすい人だったそうだ。おばあちゃんいわく、「仁義なき戦い」を見たあとの2週間くらいは広島弁を喋っていたという。東京の島生まれなのに「じゃけえ、じゃけえ」と言っていて恥ずかしかった、と。

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気を紛らわせながら麺をすすり続けた。途中、苦しいやら恥ずかしいやらで何度か発狂しそうになったけれど、なんとか食べ切った。私のお腹の限界は、夜ごはんのあとに袋麺を二つ。

大食いの人たちに比べたら大したことはないけれど、特別なことをして過ごせた気はする。満腹感と満足感に浸りながらチャンネルを回すと、千鳥の番組がちょうど始まるところだった。……岡山弁、かっこええなぁ。 

つまり

日曜日の昼、激辛料理にハマっていたときに買い貯めた激辛の袋麺に豆乳、チーズ、玉子を加えて、まろやかにして食べ切った。

激辛はもう食べない。「こんな辛いものを食べられる私スゴイ!」がストレス発散になるけれど、胃痛と腹痛のストレスが発散したストレスを補って、0になるから食べない。

0は、腹を満たしただけのような、同居人が「うまい」も「まずい」も言わずに食べるような、自分のまあまあな手料理と同じ。無理して食べる必要がない。

激辛が得意なら1になるのだろう。私は激辛が得意ではないけれど頑張って食べるタイプだから1にはなれない。マイナスではないだけまし。0が精一杯。

毎日は頑張りたくないからたまに食べる程度で、いつまでも慣れないからいつまでも0のままで……。悔しいけれど、もう諦めよう。私に激辛は向いていない。

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──さて、今日のお昼ごはんはキムチ鍋の素、ラー油、ホアジャオをたっぷり加えた味噌の袋麺。辛かった。もちろん0だった。激辛とは、つまりそういうことだ。

買いに行くのが一番早い

ベランダで涼んでいると、ビオトープの水位が雨水で上がっていることに気付いた。今にも溢れ出しそう、というほどではないけれど、少し気になる。

柄杓一杯分を捨てれば良いくらい。だけれど家には柄杓がない。そういえばこの前、植物に液肥を与えるときも、柄杓があると便利だなぁ……と思った。

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柄杓が欲しい。今すぐ欲しい。買いに行こう。いや、めんどくさい。水をすくえるなら何でもいいはず。まずは家の中で柄杓の代用品を探すことにした。

お玉……料理に使うから気持ち悪い。マグカップ……なんかイヤ。天下一品のノベルティ皿……天下一品のノベルティ皿……? 結局、柄杓の代わりになるものは見つからなかった。

Googleで「柄杓の作り方」を調べて、ペットボトル、割り箸、ガムテープ、両面テープ、瞬間接着剤、カッター、毛糸を用意した。言い忘れていたけれど、私はズボラを拗らせている。

見よう見まねで「柄杓っぽいもの」を作ること1時間、「柄杓 〜事の発端は雨〜」が完成した。使い心地は良好。水位を下げることも、液肥を与えることもできた。

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ぜひ、みんなもズボラを拗らせていろいろなものを作ってみてほしい。完成度が低いと「すっごい何?」となるが、完成度が高ければズボラをより拗らせることができる。